江戸初期から中期にかけて最盛期を迎えた法華寺(現、圓融寺)でしたが、幕府による不受不施派の弾圧の中で衰微し、元禄11年(1698年)、第19世日附上人が八丈島に流刑されることによって450年続いた日蓮宗法華寺の歴史は幕を閉じました。再び繁栄の時期がおとずれたのは、天台宗に改宗後のことで、それは黒仁王尊信仰の爆発的なブームによるものでした。
田山花袋の『東京の近郊』には「そこにある仁王尊は、昔は中々の流行佛で、寛政年間には、殆ど道もさりあへぬほど、參拜者があったといふ事が何かの本に書いてあったと覺えている」と書かれていますが、確かに『遊歴雑記』(※1) 『過眼録』(※2) 『新編武蔵風土記稿』(※3) 『江戸名所図会』(※4) 『武江年表』(※5)『飛鳥川』などの江戸時代の文献には、法華寺の仁王尊が庶民の篤い信仰をあつめていた様子が語られています。
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それらの文献によると、最盛期はおよそ天明年間末から寛政年間末にいたる十二、三年間で、門前には茶店が立ち並び、境内では多くの人々が仁王尊にお線香を供えたり、背負わなければならないほどの大きな草鞋を奉納したりして、大変な賑わいぶりだったようです。
おそらく、物見遊山といわれる郊外散策や旅行が当時の庶民の娯楽の一つとして盛んになったことが、仁王尊の参詣と深く関連していると思われますが、なかには宿願成就を願って夜を徹して断食修行するような熱心な信者も多く、仁王門の周囲にはお籠(こも)り堂が数箇所設けられていたそうです。また、仁王尊の床下は、近年まで断食修行をする人が入れるようになっていました。
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江戸から法華寺までの道のりは、昔の単位で二里半余りといわれますが、参詣するために最もよく用いられていたのは品川宿からのルートで、通称「碑文谷道」と呼ばれました。
碑文谷道は、品川宿の南馬場、今の南品川から西にのびている野道で、平塚村(品川区平塚)より下丸子道(中原街道)を横切ると、武蔵の辻(品川区小山二丁目)に出ます。その角には名物の煤団子(すすだんご)を売る店があったので、別称、煤団子の辻ともいいました。この地には仁王尊繁栄期の寛政元年(1789年)に「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれた道標がたてられました。すなわち、目黒不動尊と碑文谷仁王尊の分岐点がちょうどこの辻だったのです。
この道標は昭和31年の道路改修工事のために僅かに移動され、左右の方向が逆になってしまいましたが、今もなお残されており、仁王尊の参拝者で賑わう当時の様子をしのばせてくれます。
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(※1)『遊歴雑記』
「武州荏原郡碑文谷法花寺(天台)は、目黒村祐天寺より西南の方二十余町にあり、仁王門は南の耕地を表とし、裏門は北東の方にあり、扨音に聞ゆる仁王尊は長一丈半、慈覚の御作とも運慶の作ともいえり、黒く塗りたるものにて、五体筋骨の様子さのみ勢ひなく痩せたる様に見へ、世上の仁王とは一風替りたるぞ聖りの作ともいふなるべし、(中略)此仁王尊の前に奉納の石灯篭、又は草鞋がけ、線香台等ありて、参詣の人々線香に火を点じて供ずるあり、或は荷ふ程の大草鞋を奉るもありて、色々の人ごころ又面白し、扨本堂といふもの僅に四間に過ず、此北うしろに大榎あり頃しも繁茂し、此樹のまはりに厳重に駒よせしたるは仁王尊の神木にこそ、(中略)扨此寺の仁王門にはあやしの出茶屋戸床几に憩ひ東南の二方を眺望するに、頃しも七月十六日稲のはなは半穂にいでて、田園の風景はいふべき様なく、しばし涼風に汗を納、煎茶数腕を啜して渇を補ひつつ是より奥沢村の九品仏へ罷りぬ。」
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(※2)『過眼録』
「安永巳の年よりの間目黒碑文谷の二王流行で参詣多し。」
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(※3)『新編武蔵風土記稿』
「二王門 総門の内十五六歩許にあり、四間に三間、左右に金剛の像を安ず、此像は安阿弥快慶の作なり、普通の像よりは甚痩て古色殊勝に見ゆ、長五尺余霊験あらたなりとて、参詣人の宿題(ママ)によりて通夜するものも多し、前に石階あり等数五級、」
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(※4)『江戸名所図会』
妙法(ママ)山法華寺 碑文谷にあり。祐天寺の南、半道ばかりにあり。吉祥院と号す。天台宗にして東叡山に属す。本堂本尊は釈迦如来、脇士は文殊・普賢なり。(里諺に、今存する所の堂宇は飛騨匠某が作る所なりといへり。)観音堂(堂の前左の方にあり。本尊は十一面観音の立像にして、参籠の人この堂に通夜す。)榎木(釈迦堂の後、左の垣添にあり。至っての古株なり。当寺開創已来のものなりとて、その本に垣を繞らす。)二王門金剛・密迹の二像は仏工安阿弥の作なりといへり。(霊威尤も著きが故に、世人尊信す。いかなる故にや、寛政紀元の年己酉の頃より、後十二年ばかりの間霊験者として、頻りに都下の人郡参して道もさりあへざりしが、いつしかその事止みたり。)当寺、その先は慈覚大師の開創にして、天台宗の古刹なりしが、後日蓮の宗化に帰し、日源上人中興開基たり。つひに元禄に至り旧貫に復し、元の天台宗を唱ふ。(今堀内妙法寺に安置せし日蓮大士の像は、当寺よりうつすといへり。)境内桜・楓の二樹多く、春秋共に頗る壮観たり。」
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(※5)『武江年表』寛政元年の条
「天明七、八年のころより、碑文谷法華寺の仁王尊諸願成就するよしにて、貴賎男女参詣する事あり、次第に群集夥しかりしが、十二年ばかりにして絶えたり(祈願の者断食をして籠る。又日参等もありし)。」
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