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【法話】一寸先は闇でいい ②

一歩の価値

 

「はじめ塾」の創設者である和田重正氏が学生たちによくこんなクイズを出していたと本の中で行っています(『生きることを考える本』地湧社)。「東京から大阪まで歩いたら百万円もらえるという懸賞があるとします。仮にそれが十万歩かかるとしたら、一歩の値段はいくらか?」という問題です。
読者の皆さんも考えてみてください。おそらく、ほとんどの人が十円と答えるでしょう。つまり、百万÷十万=十という割り算をするわけです。確かに計算すればそれが正解です。しかし、それは本当に事実と合うでしょうか、というのです。例えば三歩で三十円、百歩で千円払えといわれたら、その価値はないと答えるでしょう。だとすると一歩の価値はゼロです。しかしまた、最後の十万歩から考えてみたらどうでしょう。ゴールから一歩前の九万九千九百九十九歩から十万歩への一歩は百万円の価値があります。そうすると、その前の一歩も百万円の価値があります。そしてその前も…。そうやって最初まで考えると、すべての一歩に百万円の価値があることになります。つまり、一歩の価値はゼロでありながら同時に百万円でもあるのです。
人生も同じで、長い生涯の中のたったの一歩はとるに足らない無価値に思えても、同時にその一歩には人生すべての価値があるといえるのです。理屈で考えれば矛盾するように思います。しかし、実際私たちが生きているこの事実の世界というのは、頭の計算では成り立たない不思議なものなのだと和田氏は言います。
禅語でこれを言うならまさに「途中にありて家舎(かしゃ)を離れず。家舎を離れて途中にあらず」という一句がピッタリです。家舎とは到達すべき修行のゴールです。人生も一つの修行とするならば、それは永遠に途中であって完成することはありません。でもそうでありながらゴールと決して離れてはいないのです。また見方によっては、確かにゴールからかけ離れています。けれどもそれは決して途中ではないのです。
頭の中が?マークだらけかもしれませんね。それも分かります。なぜなら私たちは人生をよく道に譬えますが、その道のりを漠然と矢印のような直線軸でとらえてしまうからです。そうすると途中にある線と、矢印の先にあるゴール地点とは明らかに違います。でもちょっと待ってください。私たちの人生のどこに線が引いてあるのでしょう。見たことありますか?

 

天台の教えでは私たちの生存世界を円でとらえます。それで天台の教えを円教といったり、天台宗を円宗と別称したりすることもあります。
円というのは本来仏の完璧な世界のことですが、それはどこにあるかというとお月様を眺めるみたいにはるか遠くにあるのではありません。今この場所がすでに円の世界だというのです。この世界のすべての人々、一切のあらゆる存在がその円の中に存在しているのです。
私たちは、今立っている場所は目的に達するまでの過程に過ぎず、このままではダメだとゴールを探し求めて歩き彷徨っていますが、すでに円の上を歩いているのであれば、いつでもその足元にゴールである仏の世界があるのです。誰が後でも先でもありません。立っているところはそれぞれ違っても、皆平等に仏の世界を歩いているのです。そう考えれば、一歩でありながらゴールであるという一見奇妙にみえる話も納得がいくのではないでしょうか。

 

恰好(かっこう)!

 

とはいえ、私たちの人生には嫌なこと、思い通りにならないことがいっぱいです。できればそんな一歩は踏みたくないと思うはずです。
まさに私なんか、「面倒だな」「苦手だな」「まさかこんな」という一歩ばかり。でも、そんな時、心に留めている禅語があります。それは「恰好」というたったの二文字。覚えやすいでしょ。
唐末の趙州(じょうしゅう)という禅師のエピソードです。趙州禅師が弟子から「大困難が訪れたら、老師はどうなさいますか?」と問われた時、趙州禅師はたった一言、「恰好!」と答えたそうです。
「恰好」とは「恰(あたか)も好(よ)し」ということで、丁度いいという意味です。ちなみに窪田慈雲著『心に蘇る「趙州録」』(春秋社)では「よしきた!」としています。名解釈ですね。
先述の和田重正氏の本の中に鳶職(とびしょく)のお話があります。鳶職でも間違って高いところから落ちてしまうことがたまにあるそうなのですが、そんな時は、落ちるより先に自分から飛び降りるのだそうです。怖いと思って目を背けると大怪我につながるけれど、しっかり目を開けて落ちる先の様子を把握しておくと怪我が少なくてすむというのです。これはまさに「恰好」の心境です。

 

ですから私も何か大変なことが起きたら、たとえ不安でいっぱいでも、「よしきた!自分にピッタリのことがやってきたぞ」という気持ちで自ら向かって行こうと思っています。
どのみち人生の旅路は死ぬまでその歩みを止めることはできません。いつだって右左右左の繰り返し。どうせ一歩足を踏み出すのなら、晴れ晴れと行きたいものです。それこそ「カッコ(恰好)いい」生き方なんじゃないでしょうか。

 

人生は先が分からないのでまるで迷路のようなものかもしれません。でも、迷路は迷路でも行き止まりのない迷路だと私は思っています。普通の迷路であれば出口につながる正解の道は一本しかありません。でも行き止まりがなければどの道を歩いても正解です。何も妨げるものはありません。一歩一歩しっかり足下を見て歩けばいいのです。先が見えないから不安もありますが、逆に先が見えたら退屈です。だから最後はこう締めくくりましょう。
一寸先は闇でいい、だから人生は面白い!

 

 

 

 

 

 

【天台ブックレット#92掲載】

【不許無断転載】

 

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