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【法話】自分からの解放①

自分からの解放

 

最近、ガッカリすることがありました。

(といっても三秒ほどで立ち直ったので、あまり心配せずに先をお読みください)

ある雑誌の取材で、坐禅とは何ですかと問われ、

「自分から解放されることです」

と答えたのですが、発行後にその雑誌をみたら、

「坐禅とは自分を解放することです(住職談)」

と書かれていて、これでは言いたかったことと真逆になってしまったなと、ちょっと残念に思ったのです。

 

「自分を解放する」というのは、自分を抑圧している外的な要因を取り除くということです。

閉塞感の漂う社会で、いろいろ我慢することも多く、やりたくない仕事をして、

会いたくない人と無理に付き合わなければならないことだってあります。

確かに自分を解放して好きなようにできたら、さぞかしスッキリするかもしれません。

一見、素晴らしいことのように思います。

でもそれは自分の欲望のままに生きるということでもあり、

結局はわがままに振る舞うことと何も変わらないのではないでしょうか。

 

しかも自分の思い通りに生きようとしても、大抵は満たされません。

むしろ「もっと、もっと」と、かえって自分の飽くなき欲望に振り回されて不自由さを感じることでしょう。

「ありのままに」というアニメ曲のフレーズも少し前に流行りました。

これも自分の思い通りに生きることだと思っている人がいるかもしれませんが、

「ありのまま」とは目の前の現実に対して自分の思いを差し挟まずに、

あるがままに受け止めて対応することです。

自分の思いを離れた時にはじめて「ありのまま」になれるのです。

 

なので、本当の自由とは、自分を解放するのではなく、

自分から解放されてはじめてなされるのだと思うのです。

坐禅によって得られる解放の境地もまさにそこにあります。

しかし、今の社会は「自分が、自分が」と、いわば自分ファーストが当たりまえです。

だから「自分を解放する」というほうが共感されやすく、

「自分から解放される」と言っても、なかなかピンと来ないのかもしれません。

 

自分とは何者か?

 

ここで改めて考えてみましょう。私たちが後生大事にしているこの自分とは何者なのでしょうか?

「もちろん分かっていますよ」と言うでしょう。

自分について人に説明するときには、名前を名のり、住んでいる場所や、通った学校、

今やっている仕事、肩書などを述べたりするかもしれません。

でも、そのどれが本当の自分なのでしょう?結局はどれもこれも他者と区別する情報に過ぎません。

そこで自分の身体を指差して、「この生身の肉体は確かに自分じゃないか」と言うかもしれません。

でも心臓はドキドキと勝手に動いているし、

髪の毛も自然と生えてきます(私の場合、どちらかというと抜けていきます…アァ悲しい)。

人間の身体は六〇兆個の細胞で形づくられていると言われますが、

その細胞もだいたい六年周期で完全に入れ替わるといいます。

では、この肉体は一体誰のものなのでしょう?

いや、それでも心は自分のものだろう、と今度は思うでしょう。

ところが、心だっていつも自分でコントロールできているわけではありません。

何かの折に触れてはコロコロと移り動いてばかりです(だからココロと言うのか)。

五分先に自分が何を考えているかさえも予測ができません。

 

そうはいっても、どこかに自分の主体となる存在があって、

それが自分の行動を決めていると思うかもしれません。

しかしよくよく考えてみると、

この世界は様々な条件や関係性(仏教では「縁」といいます)の中で物事が起きているだけで、

そこに自分の主体といえるものは存在しないのではないでしょうか。

 

あれっ、まだ納得できないですか…。では、ちょっと実験をしてみましょう。

 

まず目を閉じてみてください。

そこで過去の経験や知識に一切頼らず、今という瞬間にだけ意識を向けてみてください。

その状態で自分が誰なのか把握することができますか?

 

あなたはどんな人物でしょう?

 

名前は?

どこに住んでいますか?

どんな仕事をしていますか?

年はいくつですか?

男ですか、女ですか?

今どこに座っていますか、あるいは立っていますか?

 

さあ、どうでしょう。

きっと自分のことについて何一つ把握できないのではないでしょうか。

私たちは、自分が確かに存在していると思っていますが、

実は自分というのは過去の記憶や知識の中にしかいないのです。

その過去は文字通りすでに過ぎ去っているので、それは頭の中の幻想にしか過ぎません。

今ここに存在していると思うかもしれませんが、そこに自分をいくら探しても見つからないのです。

 

さて、自分って一体何者なのでしょうね?

(②へつづく)

 

 

 

 

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