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【法話】自分からの解放②

「無我」って何?

 

一般的に仏教の基本教理は「無我」であると言われます。

「我」とは実体という意味で、この世界のあらゆるものには実体がないと説きます。

そうであれば、自分という実体も存在しないことになります。

しかしそれは自分が消えて無になるというわけでありません。

もし無という状態になるなら、それは「無が有る」ということになり、

それでは無ではなくなってしまいます。頭がこんがらがりそうですね。

 

ですから、「無我」という言い方はちょっと極端で誤解を招くかもしれません。

「無我の境地」なんてよく言われますが、そういう世界がどこかに存在するわけでもないし、

いくら修行をしても「無我」に至ることはできません。

もし、どこかの教祖様みたいな人が、「私は無我である!」なんて言ったら、

ちょっと怪しいと思ったほうがいいでしょう。

 

仏教では「無我」という表現を便宜上使いますが、正確さを期するなら、

我は有るわけでもないし、無いわけでもない(非有非無)という言い方をします。

大阪人なら「どっちやねん!」とツッコミを入れたくなると思いますが、

それしか言いようがないので仕方ありません。

 

「無我」というのはもともとサンスクリット語「アナートマン」(anātman)の漢訳です。

「アン」(an)は否定辞で、「アートマン」(ātman)が「我」という意味です。

仏教学の大家である中村元氏は、「無我」というのは、否定辞の捉え方によっては「非我」とも解釈でき、

そのほうがお釈迦さまの悟った内容に合致していると仰っています。

そうすると、「無我」であるから「自分は存在しない」のではなく、

「非我」であるから「自分だと思っているものが、実は自分ではない」ということになります。

この説には学者の間で賛否があるようですが、「非我」というほうが分かりやすく、誤解も少ないように思います。

 

自分という境界線

 

先ほども言いましたが、自分の身体や心は常に変化し続けていて、それをコントロールすることはできません。

自分は自分の身体の主人だと思い込んでいますが、身体の方はそう思っているでしょうか?

例えば、皮膚までが自分の領域だと私たちは思っていますが、

その皮膚のほうはきっと私の存在ことなどまったく気にかけていません。

それよりも皮膚を取り巻く空気とのほうがもっと密接な付き合いがあるでしょう。

それなのに自分の皮膚から内側は私で、向こう側は私でないと自分勝手に思い込んでいるだけなのです。

 

さらにいえば、自分の財産も「非我」の立場からすれば自分の所有物ではありません。

もし自分のものを勝手に他人に奪われたら誰もが怒るでしょう。

でも、どんな所有物も最初から自分に具わっていたわけではありませんし、

未来永劫自分のものにすることもできません。

それは仮に自分の手元にあるだけのことです。自分のお金で購入したのだから自分のものだというでしょうが、

お金だって本来は単なる紙切れです。

経済社会の中で共通の約束事としてあるだけです。

文明社会から閉ざされた村落に行ったらまったく通用しないでしょう。

 

人間関係も同じく、どんなに愛する人であろうが、仲良しであろうが、その状態が続くとは限りません。

もしずっと自分のものだと執着していたら、これは問題になります。

例えば別れた彼女に対して「あいつは俺のものだ」と思い込んでいたらストーカーになってしまいます。

そうすると、自分や自分の所有物、人間関係は仮の境界線によって決定づけられているだけで、

本来は誰のものでもないはずです。

もしも境界線がなければ、何から何までが途切れることなく、ただ存在が存在しているだけなのです。

 

例えば富士山はどこからどこまで富士山かというと、別に境界線が引いてあるわけではありません。

地図上で仮にここからここまでを富士山としようと決めているだけです。

実際は何の途切れもなく地続きで、それは本州、地球、宇宙とつながっています。

ですから、富士山は単に富士山ではなく、イコール宇宙であると言えるのです。

自分という存在も同じです。

この宇宙のあらゆる存在が隔たりなく一つの存在としてあるのです。

 

「無我」の別の表現で「空」という言い方もあります。

これも誤解されやすいですが、空虚とかカラッポということではなく、

すべてが繋がり合っている関係性を説く言葉です。

大学時代のことですが、仏教学者で天台宗の学僧である福井文雅先生の授業を受けた時に、

先生が「無」と「空」の違いについてとても分かりやすく説明してくださいました。

まず「無」と「空」を使って単語を作ってみなさいというので、

ある学生が「無車」と「空車」と答えました。

すると先生は、「無車」なら車がないということだから乗ることはできないけれど、

「空車」なら乗ることができますね、と仰いました。

これが「無」と「空」の大きな違いです。

「無」であると関わり合うことができませんが「空」であれば関わりがもてるのです。

 

重要なこと

 

「無我」や「空」というと冷淡な思想のように感じますが、実はとても温かい教えだと思います。

私たちはつい様々なものに境界線を引いて、自分と他者とを対立させています。

そうすることでどちらが優れているか比べ合ったり、損得を気にしたり、

時にはいを起して人を傷つけてしまいます。

国同士もお互いの国益を守ろうと戦争をすることがあります。

「我」というのは境界線を引くことによって現れるのです。

それがすべての苦しみの根源です。

でも、その境界線は幻のようなもので思い込みにすぎません。

自分という境界線から解放されれば、すべては対立することなく、上下の差もなく、

お互いに触れ合うことができるのです。

私たち一人ひとりが「無我」の教えを人生に活かすことができれば、

この世の中はもっと素晴らしくなりそうです。

 

さて、坐禅の話に戻りますが、最近は坐禅や瞑想がちょっとしたブームです。

大企業でも取り入れているところがあるようです。それはとても良いことですし、

どんどん実生活に活かしていただきたいのですが、それが自分の成功や会社の利益のため、

ましてや自分を解放して思い通りに生きるために行うのであれば、

自分という境界線をますます強固なものにしてしまうでしょう。

 

「自分の解放」と「自分からの解放」の違いなんて些細なことのように聞こえるかもしれませんが、

私にはとても重要なことに思えるのです。

 

 

【『圓融寺小冊子』平成28年3月】

【不許無断転載】

 

 

 

 

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