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【法話】世界が平和にならない理由①

世界が平和にならない

 

物騒な世の中

 

最近、物騒なことが次々に起こります。

いや、我が家のことではありませんからね。

これでも案外、夫婦仲良くやっているんですから、心配はご無用です。 

 

そうではなくて、テレビや新聞のニュースやインターネットを見ていると、

毎日のようにいろいろな事件や災害が起こり、なかなか穏やかな気持ちではいられません。

世界情勢も不穏です。

日本もいつか戦争やテロに巻き込まれてしまうのではないかと不安な人も多いでしょう。

それに加えて、事あるごとに「あれがいけない」「こうすべきだ」と議論が紛糾し、

ちょっとした問題や不手際でもクレームや炎上、それに対する謝罪、さらには土下座と…。

失敗を許さないギスギスした社会風潮が漂い、つねに誰かが誰かを裁いているように感じます。

もちろん由々しき問題は反省して早急に対処すべきだし、軽率な失言は要注意ですが、まるで踏絵を踏むかのように言動を選ばなければならない世の中というのも、なんだか窮屈でなりません。

 

身近なところでも、いつも穏やかにいくとはかぎりませんよね。

暖かな朝日を浴びて穏やかな目覚めを迎えても、そんな状態がずっと続くわけはありません。 

いつ何時、予期せぬトラブルに巻き込まれるかもしれません。

人間関係のいざこざも絶えません。

今もきっとどこかで誰かが誰かと言い争っているでしょう。

私たち仲良し夫婦(強調しすぎると嘘っぽい…)の間でさえ、たまに熾烈なケンカを繰り広げることがあります(なぜか最後に謝るのはいつも私ですが)。

家庭内で、職場で、あるいは道すがらの知らない人同士でも、ちょっとした一言や態度が原因でこれまで穏やかだった気分が一変するなんてことは、誰もが経験したことがあるでしょう。

 

なぜ平和にならないのか

 

誰だって平和な暮らしを求めているはずですよね。

それなのに、それがなかなかできないのはどうしてなんでしょう。

その責任を私たちはつい外側に向けて、

「あいつのせいだ」「これさえなければ」「家庭のせいだ」「教育がよくない」「社会がだめだから」「政治が悪い」

という具合に、誰かのせい、何かのせいにしがちです。

確かにそこには何らかの因果関係があるかもしれません。

でも、自分の外側のせいばかりにしていても物事は一向に解決しないでしょう。

もしかすると、自分の平和を一番邪魔している張本人は自分自身なのかもしれません。

 

インドにサイババという人がいましたね。

日本ではマスコミの取り上げ方のせいもあって、ちょっと胡散臭いイメージがあるかもしれませんが、

インドでは偉大なる宗教家であり教育者であり社会貢献家でした。

亡くなった時もインドの首相や大統領が追悼の辞を述べ、

その葬儀はインド全国にテレビ放映されるほどで、国葬級の扱いでした。

 

生前、ある信者がサイババに

「私は平和が欲しい」(I want peace)と求めたそうです。

その時、サイババは、

「『私』(I)を取りなさい。『欲しい』(want)を取りなさい。そうすれば、『平和』(peace)だけが残ります」と言ったそうです。深いですね~。

 

つい私たちは、「私」をベースにして物事を考えます。

そして誰かと意見が対立すると、自分が正論だと主張します。

でも相手もまた自分の言うことが正論だと思っています。

それでは「私」と「私」がお互いに正論をぶつけ合い、堂々巡りになるだけです。

「私」のボリュームを大音量にして、お互いに「うるさい、静かにしろ!」と怒鳴りあっているようなものですね。

静かにしたいのなら、まず自分が「私」のボリュームをちょっと下げて、

穏やかな気持ちになるのが先決だと思うのです。

 

例えば、四角の容器に水を入れれば水は四角になります。

丸い容器に入れれば水は丸くなります。本来、水に丸も四角もありません。

それなのに、水の形にとらわれて「水は四角いものだ」「水は丸いものだ」と言い争っていたらどうでしょう。  

「私」にとらわれるのも同じことかもしれません。

本来同じものを求めているはずなのに、その本質を見失って外側の形だけで争ってしまうのです。

 

仏教にこんなお話があります。

ある時、お釈迦様が弟子たちに「尖った石や小枝がごろごろ転がった道を歩くにはどうするか?」と尋ねました。

すると弟子の一人が「道を鹿の皮で覆えば裸足でも歩けます」と答えましたが、

それに対してお釈迦様はこう答えました。

「鹿の皮ですべての道を覆うことはできませんよ。それよりも自分たちの足を鹿の皮で覆ったらどうですか」と。

 

道を全部自分の都合通りに平らにすることはできません。

それなのに、なぜこの世の中は平和じゃないんだとカッカしては本末転倒ではありませんか。

平和とは外側に求めるのではなく、自分の心の内側に見出すものだということです。

 

戦争は人の心の中で生れる

 

案外、戦争というのはそういうところから始まるのかもしれませんよね。

世界が平和であればいい、戦争は愚かな行為だと、皆が分かりきっているのに、

「私」同士が平和とはこうあるべきだ、

理想国家とはこうあるべきだと正論をぶつけ合っているうちに戦争になるのです。

どちらも平和な暮らしを求めているのに…。

様々な平和活動でも「反**!」「**反対!」というスローガンをよく耳にします。

活動そのものは献身的で素晴らしい行為だと思いますが、

不満や対立の感情をもって誰かを犯人にしたり、敵にしたりするばかりでは、

やがて新たな対立や争いを生んでしまう危険があるように思います。

平和を望むなら、まず自分の心が平和であるべきです。

 

ユネスコ憲章の前文でもこう言っています。

 

戦争は人の心の中で生まれるものであるから、

人の心の中に平和のとりでを築かなければならない

 

先ほどのお釈迦様の教えと同じですね。

 

 

 

【『天台ブックレット』第77号掲載】

【不許無断転載】

 

 

 

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