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【法話】世界が平和にならない理由

世界が平和にならない

 

物騒な世の中

 

最近、物騒なことが次々に起こります。

いや、我が家のことではありませんからね。

これでも案外、夫婦仲良くやっているんですから、心配はご無用です。 

 

そうではなくて、テレビや新聞のニュースやインターネットを見ていると、

毎日のようにいろいろな事件や災害が起こり、なかなか穏やかな気持ちではいられません。

世界情勢も不穏です。

日本もいつか戦争やテロに巻き込まれてしまうのではないかと不安な人も多いでしょう。

それに加えて、事あるごとに「あれがいけない」「こうすべきだ」と議論が紛糾し、

ちょっとした問題や不手際でもクレームや炎上、それに対する謝罪、さらには土下座と…。

失敗を許さないギスギスした社会風潮が漂い、つねに誰かが誰かを裁いているように感じます。

もちろん由々しき問題は反省して早急に対処すべきだし、軽率な失言は要注意ですが、まるで踏絵を踏むかのように言動を選ばなければならない世の中というのも、なんだか窮屈でなりません。

 

身近なところでも、いつも穏やかにいくとはかぎりませんよね。

暖かな朝日を浴びて穏やかな目覚めを迎えても、そんな状態がずっと続くわけはありません。 

いつ何時、予期せぬトラブルに巻き込まれるかもしれません。

人間関係のいざこざも絶えません。

今もきっとどこかで誰かが誰かと言い争っているでしょう。

私たち仲良し夫婦(強調しすぎると嘘っぽい…)の間でさえ、たまに熾烈なケンカを繰り広げることがあります(なぜか最後に謝るのはいつも私ですが)。

家庭内で、職場で、あるいは道すがらの知らない人同士でも、ちょっとした一言や態度が原因でこれまで穏やかだった気分が一変するなんてことは、誰もが経験したことがあるでしょう。

 

なぜ平和にならないのか

 

誰だって平和な暮らしを求めているはずですよね。

それなのに、それがなかなかできないのはどうしてなんでしょう。

その責任を私たちはつい外側に向けて、

「あいつのせいだ」「これさえなければ」「家庭のせいだ」「教育がよくない」「社会がだめだから」「政治が悪い」

という具合に、誰かのせい、何かのせいにしがちです。

確かにそこには何らかの因果関係があるかもしれません。

でも、自分の外側のせいばかりにしていても物事は一向に解決しないでしょう。

もしかすると、自分の平和を一番邪魔している張本人は自分自身なのかもしれません。

 

インドにサイババという人がいましたね。

日本ではマスコミの取り上げ方のせいもあって、ちょっと胡散臭いイメージがあるかもしれませんが、

インドでは偉大なる宗教家であり教育者であり社会貢献家でした。

亡くなった時もインドの首相や大統領が追悼の辞を述べ、

その葬儀はインド全国にテレビ放映されるほどで、国葬級の扱いでした。

 

生前、ある信者がサイババに

「私は平和が欲しい」(I want peace)と求めたそうです。

その時、サイババは、

「『私』(I)を取りなさい。『欲しい』(want)を取りなさい。そうすれば、『平和』(peace)だけが残ります」と言ったそうです。深いですね~。

 

つい私たちは、「私」をベースにして物事を考えます。

そして誰かと意見が対立すると、自分が正論だと主張します。

でも相手もまた自分の言うことが正論だと思っています。

それでは「私」と「私」がお互いに正論をぶつけ合い、堂々巡りになるだけです。

「私」のボリュームを大音量にして、お互いに「うるさい、静かにしろ!」と怒鳴りあっているようなものですね。

静かにしたいのなら、まず自分が「私」のボリュームをちょっと下げて、

穏やかな気持ちになるのが先決だと思うのです。

 

例えば、四角の容器に水を入れれば水は四角になります。

丸い容器に入れれば水は丸くなります。本来、水に丸も四角もありません。

それなのに、水の形にとらわれて「水は四角いものだ」「水は丸いものだ」と言い争っていたらどうでしょう。  

「私」にとらわれるのも同じことかもしれません。

本来同じものを求めているはずなのに、その本質を見失って外側の形だけで争ってしまうのです。

 

仏教にこんなお話があります。

ある時、お釈迦様が弟子たちに「尖った石や小枝がごろごろ転がった道を歩くにはどうするか?」と尋ねました。

すると弟子の一人が「道を鹿の皮で覆えば裸足でも歩けます」と答えましたが、

それに対してお釈迦様はこう答えました。

「鹿の皮ですべての道を覆うことはできませんよ。それよりも自分たちの足を鹿の皮で覆ったらどうですか」と。

 

道を全部自分の都合通りに平らにすることはできません。

それなのに、なぜこの世の中は平和じゃないんだとカッカしては本末転倒ではありませんか。

平和とは外側に求めるのではなく、自分の心の内側に見出すものだということです。

 

戦争は人の心の中で生れる

 

案外、戦争というのはそういうところから始まるのかもしれませんよね。

世界が平和であればいい、戦争は愚かな行為だと、皆が分かりきっているのに、

「私」同士が平和とはこうあるべきだ、

理想国家とはこうあるべきだと正論をぶつけ合っているうちに戦争になるのです。

どちらも平和な暮らしを求めているのに…。

様々な平和活動でも「反**!」「**反対!」というスローガンをよく耳にします。

活動そのものは献身的で素晴らしい行為だと思いますが、

不満や対立の感情をもって誰かを犯人にしたり、敵にしたりするばかりでは、

やがて新たな対立や争いを生んでしまう危険があるように思います。

平和を望むなら、まず自分の心が平和であるべきです。

 

ユネスコ憲章の前文でもこう言っています。

 

戦争は人の心の中で生まれるものであるから、

人の心の中に平和のとりでを築かなければならない

 

先ほどのお釈迦様の教えと同じですね。

 

心の鏡

 

こんな寓話があります。

ひとりの旅人がある村を訪れ、村の長老に

「この村で暮らしたいのですが、ここの村人はどんな人たちでしょうか?」と尋ねました。

長老が「あなたが住んでいた村の人々はどんな人たちでしたか?」と問い返すと、

旅人は「盗人、嘘つき、薄情者、悪人だらけでした」と答えました。

すると長老は「この村も同じ人間ばかりですよ」と言いました。

旅人はその場を去り、二度と戻ってきませんでした。

 

しばらくして別の旅人がその村に暮らそうとやってきました。

長老が再び「あなたが住んでいた村の人々はどんな人たちでしたか?」と問うと、

旅人は「親切で思いやりと愛情があり、善人ばかりでした」と答えました。

すると長老は「この村も同じ人間ばかりですよ」といって旅人を迎え入れました。

 

自分をとりまく世の中は同じ環境であっても、自分の心次第で善良にも邪悪にもなるのですね。

こんなひどい世の中まっぴらだなんて不満不平を感じて生きている人もいるかもしれませんが、

それは自分の心が世の中の嫌なものばかりに焦点を当てているということではないでしょうか。

幕末の神道家・黒住宗忠の言葉で「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿をうつしてや見ん」というのがあります。

目の前の現実は自分の心を映し出す鏡のようなものだということです。

「こいつはなんて嫌な奴だ」と思えば、それは自分の心の中の嫌な部分が投影されているのです。

また、「こんな素晴らしい人と出会えてよかった」と思えば、自分の心の中の素晴らしさと出会っているのです。

私も、妻が鬼の形相でこちらを睨んでいるとしたら、私自身の心が鬼なのだと思うように努力します。

 

人生は水面の波のごとし

 

人生は波のようなものかもしれません。

波は凪みたいに穏やかな時もあれば、強風で激しくうねる時もあります。

大きくもなったり小さくもなったりします。絶えず変化し、一ところにも止まることはありません。

また波は独立して存在しているわけではありません。

潮の流れや気候など、様々な自然条件によって波の状態は刻々と変わります。

そして波が自分の意志で姿形や方向を変えているわけでもありません。

人生も同じで、様々な縁によって常に変化し続けます。

そして、その変化を自分の思いのままに操ることはできません。

 

仏教では、そのような人生を

「諸行無常」(あらゆる物事、現象は変化してやむことがない)、

「諸法無我」(すべてのものは独立して存在してない)、

「一切皆苦」(すべてのことは思い通りにならない)と言い表します。 

 

考えてみればあたりまえのことで、誰もが経験上味わっていることですが、

私たちはついそれを忘れてしまい、ままならぬ人生を嘆き、時にはその怒りを他者にぶつけてしまいます。 

 

水面の波は私たちにはどうすることもできません。

荒れ狂う波を穏やかにさせることなど無駄な抵抗です。

それなのに私たちは水面のどこかに穏やかな場所を探し求めてさまよっています。

そしてそれがなかなか見つからず、無力さや恐れを感じて余計穏やかな気持ちでいられなくなってしまうのです。

 

ただ、一つ忘れていることがあるのではないでしょうか。

波はそのまま海だということです。

水面がいかに荒れていようとも、波が大きかろうが小さかろうが、海は何も変わりません。

水の量が増えたり減ったりすることもありません。ずっとそのままです。

そこにこそ本当の穏やかさがあるのではないでしょうか。仏教ではそれを「涅槃寂静」といいます。

日本を代表する哲学者で禅にも造詣が深かった西田幾多郎がこんな句を残しています。

 

わが心深き底あり、喜も憂の波もとどかじと思う

 

この句を作った頃、彼は最愛の妻と長男を病気で亡くし、二人の娘も病に苦しんでいたそうです。

まさに人生の荒波の中で読んだ句といえます。

しかしその心には荒波もとどかない深い底があるのです。

涅槃寂静とは水面の荒波が無くなった状態なのではなく、荒波の真っ只中であっても、

気づきさえすればいつでもともに在るものなのです。

 

計算したことがないので分かりませんが、

一つ一つ姿の異なる波の高低、大小を数値化して相殺したら、

きっと海は水平になるのではないでしょうか。海からすれば波はゼロということです。

仏教ではあらゆるものが「空」だといいますが、同じことかもしれません。

だからといって人生は虚無だ、無意味だということではありません。

損してもゼロ、得してもゼロ、失敗してもゼロ、成功してもゼロ。

どんな波であろうと、それはそのまま大いなる海として生きているんだ。

そんなふうに考えたら、なんだか気が楽になってきませんかね。

海としての自分の人生が分かっていれば、どんな波が押し寄せても、

「よし来た!」と、その縁を穏やかに引き受けていく心のゆとりがもてそうです。

 

同じいのち」を生きている

 

私たちが波でありながら海を生きているということは、

一見バラバラに見える私たちは一つの存在だということになります。

言い換えれば、同じいのちを生きているということになります。

目の前の嫌いな人も、損得を争うライバルも、戦闘中の敵味方も、本質的にはみんな同じいのちです。

波としては異なる姿として立ち現れ、別々の生き方をしているけれども、何もかもが自分のいのちです。

水面では荒れ狂う嵐の中でエゴとエゴ をぶつけ合って争っていても、

海の底では「いのち」と「いのち」が触れ合っているのです。

その海の底にある穏やかさを見出してこそ、本当の平和が実現できるのではないでしょうか。

こんなことを書いていると、

「こんな物騒な世の中で、今に戦争やテロだってあるかもしれないのに何を能天気なことを言っとるか、この平和ボケ!」なんて声が聞こえてきそうですね。

でも、そういう心の中で戦争が始まるのです。

平和主義のはずが、いつのまにか反平和主義になってしまうのです。

ホント人間って、厄介な存在ですね。

 

 

【『天台ブックレット』第77号掲載】

【不許無断転載】

 

 

 

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